ひきだし

島のうたは、何に使われているのか

第1183話まで読んで書いています

先に結論考察

節は同じで、言葉だけが場面ごとに変わる

  • 同じ音が、楽しい場でも追われる場でも
  • どちらでも、島の音として正しく聞こえる
  • そこが、この編の後味に効いている
  • 絵から読んだ形を、音楽の側も言っている
  • 絵だけでは届かなかったところになる

この記事で、まだわかっていないこと 3

島の編を読み直していて、同じ節が何度も戻ってくることに気づいた。 戻ってくるたびに、鳴っている場所の意味が変わっている。

五つの場面

第666話。到着。 「島へようこそ」ののぼりの下を歩いていく。 事実(第666話) 両側に屋台がならび、呼び声がそのまま節になっている。 たこ焼き、綿あめ、じゃがバター。品名が旋律に乗っている。

第680話。水の中。 黒い耳の大きな者が、水から顔を出して歌う。 事実(第680話) 歌っているのは屋台の呼び声とまったく同じ言葉だ。 ちいかわは声の重なりに驚いて、こう言う。

コーラス隊!?

第688話。武器。 「戦うしかないようだな」と言われ、 ちいかわ達に道具が手渡される。 事実(第688話) そのあいだずっと、まわりの島民はあの節を歌っている。 歓迎のときと同じ音が、送り出しのときにも鳴っている。

第750話。夜。 赤い目をした大きな影が、同じくり返しとともに現れる。 事実(第750話) 島民はふるえて並ぶ。歌はそのまま、犯人を名指しする言葉に続く。

第786話。見送り。 船に乗るところで、また同じ節。 事実(第786話) 品名だけが入れかわって、貝汁カレーになっている。

考察/ここまでで言えること

言葉のほうは入れかわりつづけ、節だけが一度も変わらない。

たこ焼きが貝汁カレーになり、歓迎が討伐になり、最後は見送りだ。

同じ音が、楽しい場所でも、追いつめられる場所でも鳴る。

この作品は、ものの意味をものの側に置かない ── ものの名は一つでも、回ごとに別の役が当てられる。 歌も、同じ扱いを受けている。

映画が、この読みに数を与えた

ここからは、原作の外の話だ。

映画のサウンドトラックには「島のうた」という曲があり、 七つの版で入っている。 事実(サウンドトラックのクレジット) 祭囃子の版、討伐オファーの版、セイレーンの版、 まちがえて襲ってしまった版、アカペラの版、島二郎の版。

版の名前が、そのまま原作の場面と並ぶ。

サウンドトラックの版本編で同じことが起きている回
島のうた第666話(到着)
祭囃子ver.第666話(屋台の列)
討伐オファーver.第688話(武器が配られる)
セイレーンver.第750話(夜の名指し)
島二郎ver.第786話(見送り)

「島のうた」はトクマルシューゴの単独作曲で、 セイレーンの版だけ上水樽力との共同作曲になっている。 事実(サウンドトラックのクレジット) 同じ旋律なのに、作曲のクレジットが違う。 それだけ作り変えたということになる。

よく言われている説

「この節は何の歌なのか」について。 巷の説

ひとつめ 島の商いの歌である

はじめに鳴るのが屋台の呼び声だから、もとは売り声だという読み。 事実(第666話) 品名が入れかわっても節が変わらないのは、器としてできているから。

この見かたで説明できないこと。 水の中の者たちが歌っている。 事実(第680話) 売る側でも買う側でもない者が、なぜ売り声を覚えているのか。

ふたつめ 島全体の歌で、屋台はその一つの使いかたにすぎない

歓迎にも、送り出しにも、見送りにも鳴る。 事実(第786話) 場面を問わず鳴る歌が先にあって、屋台がそれを借りている、という順。

この見かたで説明できないこと。 夜の場面で、島民は歌っていない。 事実(第750話) 歌っているのは現れた側で、島民はふるえて聞いている。 島全体の歌なら、そこは逆になるはずだ。

みっつめ もともと水の側の歌で、島が借りている

順を裏返す読み。水の中の者たちのほうが先に持っていて、 島の屋台が取り入れた。歌に力があるとされる者たちの歌なのだから、 出どころはそちらだという筋。

この見かたで説明できないこと。 屋台の言葉がそのまま歌われている。 事実(第680話) 水の側が先なら、品名まで一致する理由がない。

よっつめ 誰の歌でもなく、島にあるだけ

出どころを決めないほうがよい、という立場。 島に来た者は覚え、島にいる者は歌う。歌が場所に属している。

この見かたで説明できないこと。 何も説明していない。 ただし、作中でも説明されていない。

この読みの、弱いところ

同じ節の出る回は五つを引いている。

節が一度も変わらない、と言うには、 歌の鳴るこまを、島の106話から拾い直すことになる。 三度が抜けているという聞き取りは人づてで、譜面を見ていない。本文もそう書いている。

ここから先は推測

映画の音楽について、こういう読みが出ている。 セイレーンの版は四拍子が三拍子に変わっていて、 さらに和音の三度の音が抜けている。 その場面では三つで歌うはずのところが一つ欠けている。 声の数の不足が、和音の不足として鳴っているという読みだ。

拍子が変わることはサウンドトラックのクレジットからも分かる。 事実(サウンドトラックのクレジット) 三度が抜けているという聞き取りのほうは、 譜面が出ていない。

それでも、この読みが正しければ、原作の一行と正面から噛み合う。 本編にはこうある。 事実(第756話)

歌の力は弱まる

そろわないと弱まる、という理屈が、 そろっていない和音として鳴っていることになる。 これは飛躍だ。 聞き取りを人づてに受け取ったうえで、 原作の台詞と結んでいる。二段ぶん足が浮いている。

まだわかっていないこと

  • この節が島でもともと何の歌だったのか。屋台の呼び声が先か、水の側が先かで読みが割れる。品名まで一致していることが、いまのところ唯一の手がかりになる

    絵を開いた 事実(第786話) 屋台の呼び声の側が、先に画面に出ていた。第786話で、船を見送る島民たちが屋台を呼びこむ歌を歌う。歌詞は引かないが、歌っているのは島の側で、送られる三つは聞いている。水の側の歌が同じ節で出るのはこのあとになる。どちらが「もともと」かは、並び順だけでは決まらない

  • 水の中の者たちがどこでこの歌を覚えたのか。覚える場面が描かれない。この作品は、身についた手前をいつも描かない。そのうちの一つになる

    数えた 覚える場面が描かれないのは、この歌だけではない。13キャラとも初出に来歴が付いていない。身についた手前を描かないことの一つになる

  • 島民が意識して使い分けているのか。夜の場面では島民が歌っていない。歌う側と聞く側が回ごとに入れ替わるので、そこを並べれば使い分けの有無が出る

    絵を開いた 事実(第786話) 歌う側と聞く側が、はっきり分かれていた。第786話では島民が歌い、船の上の三つは手を振って聞くだけだ。使い分けというより、その場で歌う役が島の側に固定されている。夜の場面で島民が歌わないことと、向きはそろう

この記事の方針

  • 「事実」は、絵か公式の投稿で照合できたことだけ。確かめた話数を添えています。
  • ファンのあいだで語られているものは「巷の説」、このサイトの読みは「考察」と分けています。
  • 根拠の薄い読みは「ここから先は推測」の節に分けています。
  • あらすじの再構成と長い引用はしていません。歌詞は一行も載せません。

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